ひとたび決壊すれば海のごとく、水が引いても沢のよう…越後随一の豪農・伊藤家が挑んだ低湿地帯・亀田郷「沢海」のことである。地主の暮らしは、小作の収入や生活が安定してこそ成立する。「田地を買うなら悪田を買い、美田にして小作に返せ」との家訓どおり、伊藤家を中心に潟の乾田化が進められ、豪農とコミュニティーの歴史が堆積していった。そして、いつしか亀田郷「沢海」も名ばかりとなる。
伊藤家の屋敷は第二次世界大戦後、米軍のアパートになる予定だった。しかし、その調査に来た中尉が心変わりする。「ここが日本だと言える場所を残そう」と司令部に働きかけたことから、戦後初の私立博物館となった。
北方文化博物館はその佇まいに、人々が潟と共に生きてきた証を留めながら、今に、そして未来に新潟の文化を伝えていく。
蒲原平野の大地主
伊藤家二五〇年の歴史
北方文化博物館(ほっぽうぶんかはくぶつかん)は新潟市郊外、旧横越町の沢海(そうみ)にある。かつてこの辺りは阿賀野川と信濃川、小阿賀野川に囲まれた低湿地帯で、洪水になると水が一面に流れて海のようになったという。一説には、水が引いても窪地に水が溜まり、沢のようになったので『沢海』という地名が付いたと云われている。
北方文化博物館の前身は、250年の歴史をもつ越後屈指の大地主 伊藤家だ。伊藤家は、江戸時代中期に農業で身を起こし、明治には越後随一の大地主となった名家。全盛期には蒲原平野に1372町歩(ヘクタール)の田地を所有し、「弥彦参りまで人の土地を踏まずにゆける」といわれた豪農だ。しかし、第二次世界大戦後の農地解放でこれらの土地が所有から離れると、伊藤家はその豪壮な屋敷を北方文化博物館として一般に公開する。戦後生まれた私立の博物館第一号の誕生だった。現在の館長は伊藤家8代目当主、伊藤文吉氏である。
田地を買うなら悪田を買い、
美田にして小作に返せ
伊藤家には「田地を買うなら悪田を買い、美田にして小作に返せ」という家訓があった。条件の悪い田んぼを買って土地改良を施し、良質の田んぼにしてから小作に返す。この言葉は地主と小作の関係をよく物語っている。小作の収入や暮らしが安定してこそ、地主も暮らしが成り立つというもの。また、地主は小作に土地を貸す一方で、小作の人々の暮らしの世話役でもあった。そして、その屋敷は地域の中心であり、談話室でもあったのだ。
北方文化博物館にはいろりの間が2つある。1つは大きないろり、もう1つは小さないろりを備えている。「大きないろりの間は、伊藤家で働く人々や地域の人々のくつろぎの場。小さないろりの間は、家長と重要なお客人との接見の間。接見の間は、母親や私でさえ入ることができない特別な場所でした」と伊藤館長は言う。大きないろりは、ぐるりと16人は座れようかという大きさ。その真ん中に大きな鉄瓶がかかっている。「戦前まではお風呂がない家も多く、人々はここにもらい湯に来て、いろりの火にあたりながら、どこそこの家で病人が出た、どこそこの娘が嫁にいくそうだなどと世間話をしていました。母は話し相手をしながら地域の情報を集め、お見舞いやお祝いの手配をしたものです」。いろり端は村の人々の暮らしを知る大切な情報交換の場だったのだ。
偶然の出会いから
誕生した博物館
さて、250年の歴史をもつ伊藤家が、なぜ博物館になったのか。留学経験のある先代の7代目文吉氏は、農地解放の後、時代の流れをいち早く捉え、屋敷を博物館にすることを考えていた。しかし、7代目文吉氏の意向とは別のところで、アメリカ占領軍は屋敷を軍用アパートにする計画を進めていたという。
そんなある日、軍用アパートにされるはずだった伊藤家の運命を変えたある事件が起こった。伊藤家に政府の隠匿物資が隠されているのではないかという疑いがかけられ、アメリカ軍が調査にやってきたのだ。当時大学生だった伊藤館長は、そのときの様子を振り返って言う。「父と若い将校は英語でやりとりしていましたが、そのうちに、ふたりの会話が打ち解けたものになってきたのです」。父親の留学先と将校の母校が同じペンシルバニア大学だということが分かり、中尉の目はアメリカ軍の目から、学窓の先輩を慕う目に変わったという。温和な目をしたこの中尉との出会いによって、伊藤家は博物館としての命を得る。若干23歳だった中尉は東京の司令部に働きかけ、博物館設立に理解を求めてくれたのだ。「これから日本人の生活はアメリカ的になり、どこへ行ってもここが日本だと言える場所がなくなっていく。日本には古くから伝わる暮らし文化がある。金で買える美術品を展示する博物館もあるが、日本には日本人の生活を残す博物館が必要だ」。そして、この中尉の後押しにより、1946年、『北方文化博物館』が誕生した。
博物館は子どもたちの
夢を与える場所
開館から12年後の1958年、先代の急逝により博物館を引き継いだ伊藤館長は、しばらく、日本や世界を歩き回り、博物館のあるべき姿を探し求めていたことがあったという。そんな伊藤館長にノルウェーで転機とも言える出会いが訪れた。「世界博物館会議のついでに、3ヶ月有効のユーロパスを使ってヨーロッパのさまざまな国を巡っていました。あるとき、なんとなくノルウェーのボードーというまちで降り、ある博物館に立ち寄ったのです」。そこでは、日本と韓国、中国の美術品が混在したまま展示されていた。伊藤館長は博物館にはじめて訪れた日本人として、混在する展示品の整理を手伝うことになった。整理が終わり、帰りまぎわに老館長と話をしていると、2人の子どもがやってきて館長になにやら尋ねている。「これを見つけたんだけど何の卵?」、よく見かける卵だと思って眺めていると、老館長は眼鏡を外しながら、「君たち、どこで見つけたの?これは私がこの博物館に来て30年も探していた小鳥の卵なんだ。実は私にはもう1つ見つけたい卵がある。それはもう少し山に入ったところにあるらしい。急ぐ必要はないけれど、探してほしいのだが…」と言って鳥と卵の絵を描いて子どもたちに手渡した。子どもたちが目を輝かせながら去っていくと、老館長はこう言ったそうだ。「伊藤さん、子どもたちが見つけてきたこの卵は、どこにでもいるスズメの卵です。まもなく子どもたちは私が大きなウソをついたことに気づくでしょう。しかし、子どもたちは私を憎まないはずです。なぜなら、子どもたちに科学をする心が生まれているからです」。このとき伊藤館長は「これだ!」と思ったそうだ。「博物館のあるべき姿をつかんだと思いました。向こうの子どもたちは悩んだり、寂しかったりすると博物館にやってきます。博物館は難しいことを勉強する場ではなく、遊びの空間であり、子どもに夢を与える場所なのです」。
日本人の生活文化を
伝えつづけたい
では、子どもに夢を与えるために、一番大切なものとは何なのだろうか。「それは誇りです」と伊藤館長は言う。「夢は誇りによって育ち、誇りは自分の生まれ育ったまちに関心を持つことで生まれるのですよ」。郷土に関心を持つことで、まちから出たときに、自分を振り返ることができるという。たとえば、パリに行ってパリを見るのではなく、パリから新潟を見る。すると、自分が生まれ育ったまちの個性がよく見えるようになり、世界も見えるようになるというのだ。
「だから、北方文化博物館は、時代が変わり、人が変わっても受け継がれていく日本人の生活文化を伝え続けていきたいと思っています。それが自分に誇りを持ち、夢を育てることにつながるからです」。世界の中の自分を知れば、視野が広がり、自分の個性も、人の個性も尊重できる人になれるという。
郷土に関心をもつことが
豊かな心を育てる
他者の良さを認め、それを尊重する豊かな心。その豊かな心が価値観を成熟させていくのだろう。伊藤家を博物館として残そうとした若い中尉もまた、豊かな心の持ち主だったのだ。占領軍という立場で訪れた日本で、日本の生活文化を理解し、その文化を守ることの大切さを切々と説いた中尉。伊藤館長は言う。「それが国際感覚です。日本人が国際感覚を養うには、世界の中で自分を振り返る目を育てる必要がある。自分の郷土に関心をもってはじめて、自分と他者の違いが見えるようになり、それが自分の誇りや他者の尊重へとつながるのです」。
子どもも大人も老人も
誇りを持てるまちに
伊藤館長は世界百数か国を巡る中で見えてきたことがたくさんあるという。「魅力的なまちとは、老人も、おとなも、子どもも、みんながそこで精一杯生きていることに誇りを持てるような、そんなまちなのではないでしょうか。地元の人が誇りに思うものがなければ、観光客は来ないでしょう。人々はまちの誇りに惹かれてやってくるのです」と語った。
「いい未来を作っていくことは、実に単純なことだ」と館長は言う。「古い家のないまちは、思い出の無い人間と同じである……。これは画家の東山魁夷氏の言葉です。難しいことはない。すぐそばにある伝統を見つめ直すことですよ」。
未来へのトビラは足もとにあり。故郷を知ることは世界を知ることにつながり、それがまちの未来を拓くカギになる。新潟の伝統を再認識すること、そして、本物の伝統に触れ、体験してみること。そこで感じた何かに明日の新潟の姿がある。
■一般財団法人 北方文化博物館(登録有形文化財)
住所:〒950-0205 新潟市江南区沢海2丁目15-25
電話:025-385-2001
URL:http://www.hoppou-bunka.com/history.html
開館:4月~11月 9時~17時
12月~3月 9時~16時30分
年中無休
※肩書き・役職等掲載情報は、平成27年6月現在のものとなります。