史跡・史料・史実
水死亡霊塔すいしぼうれいとう
この塔は、葛塚の龍雲寺11代和尚 秀外天明(しゅうがいてんめい)によって1843(天保14)年6月に建立された。塔が建つこの道路(県道 豊栄~天王線)は、かつて「浜茄子新道」と呼ばれた堤防で、福島潟を開発するため、1817(文化14)年に築かれたものである。この堤防を境に、北側の小潟(黒山潟)と南側の大潟(福島潟)に分けられ、潟の開発が進められた。
小潟と大潟がひと続きであった頃、福島潟は、現在よりも はるかに大きな潟であった。漁やヒシ採り、また、対岸の新発田市豊浦地区や阿賀野市笹神地区との往来など、潟端の人々は小舟に頼らなければ生活ができなかった。遮るもののない大きな福島潟では、突風に見舞われ水死する人も多かったといわれている。常に水難の危機にさらされていた当時の人々は、「龍雲寺の僧と供の者が13人溺死した」「天候の悪い夕方などには、おぼれ死んだ者の亡霊が舟ばたを押さえて沈めようとする」「髪の毛3本動いたら潟を渡るな」などと、その危険を後世に語り伝えてきた。
こうした伝説や事実が重なりあって、水難への恐怖が一層高まった。そのため、水死した人々の供養と、水上交通の安全を祈念して、この水死亡霊塔が建立された。今では四季を通して美しい景色が広がる福島潟だが、この塔は、昔、悲しい出来事があったことを今に伝えてくれている。