監修・鴨井幸彦
※このページは鴨井幸彦氏の研究成果を基に、潟環境研究所で編集したものです。
越後平野は、信濃川や阿賀野川といった大きな河川により運ばれてきた土砂が堆積してできた沖積平野(ちゅうせきへいや)です。沖積平野は、扇状地、後背湿地、三角州、海岸低地、自然堤防、海岸砂丘などのいくつかの地形に分けられます。これらの地形は、くり返しおこった河川の氾らんにともなう土砂の堆積、平野の沈降、海面のわずかな上昇や下降などの現象が重なり合って、しだいに形成されてきました。
潟や湿原が広がっていた越後平野は、江戸時代以降、放水路や排水路が掘られ、多くの潟が干拓されて農地に変わり、さらに一部は住宅地へと変わってきました。しかし、「潟」のもとになった後背湿地や池沼といった地形は、越後平野ができる過程で形成されたものなので、水をためやすいという性質をそのまま受けついでいます。
越後平野の変遷
越後平野では、これまでにたくさんの地質(ボーリング)調査が実施され、多くの資料が集められています。地質調査にともなってボーリングコア注1)試料が得られますが、これを利用して、地層の種類や重なり方を調べ、含まれる化石を分析注2)して地層がたまった時の環境を調べたり、年代測定(放射性炭素年代測定)が行われてきました。地質断面図を作る際には、こうしたボーリングコアの分析結果がたいへん役に立ちます。
古地理図は、地質調査の際に作られる地質柱状図をもとに、いくつものルートに沿って作成された地質断面図を参考にその地層が堆積した場所(環境)や時代を考えながら、作成されます。
越後平野の古地理図はいくつか提案されてきていますが、ここでは、鴨井(2018)に掲載されている図を使い、平野の変化のようすをたどります。
図-1~図-6は鴨井幸彦(2018)「越後平野の地盤と防災―腐植土層(軟弱地盤)の厚さ分布と平野の成り立ちをめぐるなぞ―」より転載
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図-1 約20,000年前は非常に寒い時代で(一般に、この時期は最終氷期最盛(最寒冷)期と呼ばれています)、北アメリカや北ヨーロッパに、現在の南極大陸でみられるような厚い氷(大陸氷河)が発達しました。そのため水分が陸に移った分、海水が減り、世界的に海水面が100メートルあまりも下がったため、海岸線は現在よりもずっと沖合に移動しました。このころの越後平野は、広い扇状地性の河原だったと考えられます。やがて氷期が終わって間氷期に入り、約15,000年前ころからだんだんと暖かくなり陸の氷が溶けて海水が増え、海水面はしだいに高くなっていきました。
図-2 約7,000年前になると、現在の越後平野の海岸寄りの部分は海水につかるようになります。そして、岩船から豊栄、亀田、角田浜にかけて、細長く海底に砂の高まり(砂州)ができはじめます。やがて、この砂の高まりがもとになって最初の砂丘(新砂丘Ⅰ-1注3))が形成されました。そして、その内側に古塩津潟・古福島潟・古白根潟などの海水〜汽水の潟湖(せきこ)ができました。この時期は、ヒプシサーマル(最温暖期)あるいは縄文海進高頂期と呼ばれるもっとも暖かい時期で、海水が一番内陸まで侵入した時代です。この時の海水域は吉田~燕付近にまで達していたと考えられています。
図-3 約5,000 年前ころまでに越後平野中央部にあった内湾は土砂によってほぼ埋められ、泥炭が堆積するような湿原や潟が広がる現在の環境に近い状態が形作られました。また、このころ阿賀野川の上流にある福島県の沼沢火山が噴火し、大量の軽石や火山灰が阿賀野川によって日本海へ運ばれ、その一部は次に形成される砂丘の材料になりました。
図-4 その後、新しい砂丘がつぎつぎに付け加わり、約3,000 年前には海岸線が鳥屋野潟付近まで移動し、砂丘地が広がりました。平野の北東部側では水域が縮小し、紫雲寺潟は一時姿を消しました。また、加治川は河口を砂丘に塞がれて南側に流れ阿賀野川に合流していました。
図-5 約2,000 年前にはさらに海岸線が海側に移動しました。この時期は弥生の小海退(しょうかいたい)と重なるせいか、平野の中央部では泥炭地が大きく拡大し、福島潟付近には再び湛水域(たんすいいき)が広がりました。一方、信濃川の河口は、依然として現在の新川河口付近にありました。
図-6 古墳時代(3世紀中ごろ~7世紀)以降になると、新砂丘Ⅲが大きく発達します。新たに発達した砂丘に出口をふさがれた信濃川の河口は出口を求めて現在の位置に移動します。一方、阿賀野川も砂丘で流路がふさがれ、砂丘間低地を通って現在の信濃川河口付近で日本海に注ぐようになりました。二つの大河の河口が一つになり、そのことによって水はけが悪くなり、堰上げ効果で流域に湛水域が広がって沼沢地(しょうたくち)があちこちに出現するようになりました。
注1) ボーリングコア: 試錐コア(しすいこあ)とも呼ぶ。地層から抜き取った円筒状の土の標本。
注2) ボーリングコアには貝化石や植物化石など目に見える化石や、有孔虫(ゆうこうちゅう)や珪藻(ケイソウ)といった顕微鏡を使わないと見られない小さな化石がしばしば含まれています。これらを分析することによって、その地層がたまった時の環境を推定することができます。
注3) 新砂丘Ⅰ-1:新潟砂丘は、古い方から大きく新砂丘Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの3つに分けられ、さらに新砂丘Ⅰは古い方からⅠ-1~Ⅰ-4の4列に、新砂丘Ⅱも古い方からⅡ-1~Ⅱ-4の4列に、新砂丘ⅢはⅢ-1、Ⅲ-2の2列にそれぞれ区分され、全部で10列に分けられています。新砂丘Ⅰ-1は、もっとも内陸側にある、もっとも古い砂丘です。
(補足)新潟砂丘と潟の成り立ちの関係
新潟砂丘は角田山麓から村上市瀬波まで約70キロメートルに及び、多いところでは10列からなり、幅は最大で10キロメートルもあります。新潟砂丘はこれまでに、砂丘に含まれる有機物や砂丘間低地の腐植土の放射性炭素(14C)年代測定によって、1列ごとに形成年代が推定されていましたが、最近になって暦年較正(れきねんこうせい)注4)が行われ、新砂丘Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの形成は、約6,000~4,500年前、約4,000~1,700年前、約1,700~1,100年前以降から、約7,600~4,800年前、約4,600~1,400年前、約1,800~900年前以降にそれぞれ修正されました。
なお一般に、海岸砂丘は、河口から海に流れ出た土砂が、沿岸流に運ばれて海浜に堆積し、季節風によって吹き飛ばされて内陸側に作られた小高い丘とされます。しかし、新潟砂丘の場合は、風成層(ふうせいそう)注5)からなる厳密な意味での砂丘ではなく、海岸沿いに分布する砂層の地形的高まりを総称して「砂丘」と呼んでいます。
この新潟砂丘の形成は、潟の成り立ちにとって大きな意味を持っています。一つは、この砂丘の形成によって越後平野の形・大きさが決まったこと。二つ目は、現在の海岸沿いに安定した厚い砂の地盤を堆積させ、人の生活の基盤となる土地を作ったこと。そして、三つ目は、排水の障害となって、内陸側に湿原や潟をたくさん作ったことです。しかし、広い低湿地帯ができたということは、逆に、干拓による広大な水田の開発を可能にし、今日の穀倉地帯の基盤を作ったと見ることもできます。
注4) 暦年較正(れきねんこうせい):暦年較正(れきねんこうせい):放射性炭素である14Cは、一定の速度でこわれて12Cに変わっていきます。放射性炭素年代測定法は、この性質を利用したものです。大気中の14Cは自然に減っていきますが、窒素と宇宙線の反応によってたえず作られるので、減った分はすぐに回復します。しかし、大気中に含まれる14Cの濃度はつねに一定ではなく、時代によって微妙に変化しているため、暦年代(1950年よりさかのぼった年数(BP)や西暦(AD)とか紀元前(BC)で示した年数)に置き換えた場合にズレが生じてしまいます。これを補正する作業を暦年較正といいます。
注5) 風成層(ふうせいそう):風の作用によって岩石の細片、砂、粘土、火山灰などが運搬され、堆積してできた地層。
参考文献
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