佐野藤三郎
記念シンポジウム
平成26年は、亀田郷土地改良区理事長だった佐野藤三郎氏(1923年~1994年)が急逝して、ちょうど20年。価値観の変遷の激しい時代にあって、佐野氏が心血を傾けた諸々の事業や拠り所となった農業立国的な思想が、人々の記憶からうすれかけている。没後20年を機に、佐野氏が向き合った課題をシンポジウムで蘇らせ、今日的な意義や有効性について検証と議論を試みた。また、追悼シンポにとどめず、骨太な「変革の思想」と「清濁併せ(せいだくあわ)」の実践手法など、佐野氏の生きた記憶をこれからの時代を担う若い人々が継承していくことを期待して開催された。
佐野藤三郎
昭和30年、若干32歳で亀田郷土地改良区の理事長に就任。日々 大きな夢を語りながら先頭に立ち、約40年にわたって組織を牽引してきた。また、画期的なアイデアから農業基盤整備と土地改良区運営に関する数々の事業を立案。世界的な視野も持ち、幅広い交流の中から活力ある地域づくりを実践、農業農村の振興に大きく貢献した。亀田郷の歴史に興味をひかれた作家、司馬遼太郎氏も当地を訪ね、佐野氏から話を聞いたり、排水機場や鳥屋野潟を見学したという。それらは『信州佐久平みち、潟のみち』に記されている。
山我森實理事長
私も子どもの時分はよく田んぼを手伝いました。春の田植え、秋の稲刈りには小学校が休みになり、先生からも「がんばって手伝いなさい」と言われるほど。今からは考えられないでしょう(笑)。でも、そういった不便さを、家族一丸となって乗り越えてきたのです。
また、地域を整備するにも重機を運び入れるための道路がなかった。昭和26年頃に亀田郷の交通整備事業は終わりましたが、それも苦しい歩みでした。県庁から女池インターまでの整備は特にひどかった。せっかく盛り土をしても翌日行けば沈下している。長い歳月の間に、亀田郷には腐敗したヨシ、カヤなどが堆積、ピートモスのようになっていたのです。地元ではこれを「もっかり」と呼んでいますが、乾けば土地は下がるが、水を含めばまたグッと盛り上がる。どこかを押せば、どこかから水がピューッと吹き出す…いたちごっこでしたね。表土を2メートルも入れ替えた場所もあります。新潟市民病院がある一帯も、何年も自然圧をかけて整備しました。
今後は、亀田郷の土地利用を見直す時期に来ています。例えば、アウトレットモールの誘致や子どもたちの遊び場などより交流が広がる新しいことを考えなければならない。また、私自身は佐野藤三郎さんのように、夢を追い続けたいと思います。